いくら真珠が浜が温暖な地域だからといって、やはり寒いものは寒い。
センター試験まであとひと月に迫った冬の日、海辺を自転車で走る影があった。
右手に冬らしい暗い色の海を見て、左手は山がちな中に県立の公園が広がっている。
海岸線に沿って板張りの遊歩道が整備されていて、自転車はその上を通ることができた。
その、がたつく木板を自転車で駆け抜けるのは、高校の制服を着た少女。
名前を彦川乙姫という。
自転車の前かごには帆布でできたリュックを入れている。
乙姫は目的地まで急ぎたかったのに、かごに詰まった重い荷物と、状態の悪い道のせいでうまく進めない。
はたから見れば可愛い盛りの女子高生である。だがそんなことを忘れたかのように、彼女はペダルを踏むごとに鼻息をふん、ふん、と吐いた。
鼻から出た呼気は冬の空気にいつまでも慣れず、白く蒸気をあげた。家から十分も自転車をこぎ続けているというのに、今日は一段と冷えるようだ。
がたん、と音をあげて、自転車が大きく揺れる。木の遊歩道が終わり、道がアスファルトの舗装に変わった。このほうがずっと走りやすい。
乙姫は自転車を立ち漕ぎして、次に広がる光景のために目を凝らした。
「……見えた!」
細切れな息にのせて短く言う。その目の前にガラス張りの建物が映った。
低層の建築物は海の光を取り込んで明るく輝いている。
ここが乙姫の目的地だ。
この建物は十年前に落成した美術館だ。
真珠が浜市の中でも南東端に位置する座網梳(ざもうすき)に建てられたこの美術館は、地元でも建設の是非が分かれた。しかし結局、当時の市長が反対を押し切り文化振興のために建設したのだった。
その頃建設反対派の市議だった現市長は、前市長の置いていった負の遺産を「できてしまったからにはどうにか活用しなければ」と開き直って運用に力を入れている。
都心の美術館ではなかなかお目にかかれないようなマイナーな美術展や、広告代理店とタッグを組んで人気ロックバンドの結成二十周年展を開催したこともある。
乙姫も子どもの頃から何度もこの美術館を訪れており、いろいろな展覧会を見てきた。
思えば、幼い頃この美術館で開かれた絵本の絵画展に連れてきてもらったことが、彼女の目指す進路に大きな影響を与えたのかもしれない。
彼女は東京藝術大学への入学を目指して猛勉強していた。
美術館へは、その勉強のために来るのだ。美術館は全面ガラス張りの建物である。
乙姫は駐輪場へ自転車を停めると、すりガラスでできた入り口ドアへ歩いて行った。
自動ドアは水色の上下を着た中年の女性が拭き掃除している。
「こんにちは」
「おや、乙姫ちゃん。今日も勉強かい」
「はい、センター試験までもう時間がないので」
「精が出るね」
ドアの端を雑巾でこすりながら、女性は笑顔を見せた。
白い雑巾はガラス戸の金属部品についたサビを拭いたせいで、赤茶色になっている。
海風を絶えず受ける建物だけに、金属の部分はすぐに錆びてしまう。だから客がいようといまいと、こまめにメンテナンスが行われていた。
辺鄙な場所にあるマイナーで小さな美術館だから、お客さんはいつも少なかった。
ガラス扉をくぐり抜けエントランスホールに入ると、がらんとしたホールに受付の女性が二人座っている。
天井は高く設計されているから、受付の人たちが余計に小さく見えた。
乙姫は二人に軽く会釈をすると、絵画展を見るのではなく、ホール端にある螺旋階段を上った。
彼女の行きたい場所は、今日は展覧会ではない。
階段を上ると吹き抜けの上に、これもガラス張りの通路がある。白い壁をくりぬいた向こうに、本が並んでいるのが見える。
この渡り廊下を抜けた先にあるのが、美術館の図書室だ。
子どもの頃、この図書室への道が冒険のようで楽しかったと乙姫は思う。
美術の本を専門に置いてある図書室だから、小さい子でも蔵書を眺めるだけで楽しい。
芸術家の絵を集めた絵本もあれば特殊な専門書もあって、乙姫はここがお気に入りだった。
それに、と考える。
市街地にある図書館よりもずっと静かだし、何より家から近い。
そんなことを考えながら、乙姫は図書室の自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
「こんにちは」
入り口近くのカウンターでパソコンとにらめっこしていた女性がいた。
「彦川さん。今日も来たのね。いらっしゃい」
「あ、藤堂さん。すみません、今日も勉強させてください」
「どうぞどうぞ。受験まであとひと月だもの。後悔のないように勉強していって」
乙姫はありがとうございます、と軽く会釈して、窓際の席に座った。
図書室もガラス張りで、冬の日の光をよく取り込む。建物全体が海を望む東側を向いていたため、眩しすぎるというようなことはなかった。
机の傍に置いたカバンから英語の参考書を取り出そうとして、乙姫は一瞬蔵書のほうを見る。
そこには一人、乙姫以外の影があった。
百八十センチはあろうかという長身に、細身の黒いズボンを履いた手足の長い男性。歳は二十代から三十代ぐらいに見える。
細いフレームの眼鏡をぼさぼさ頭にかけて、蔵書の整理をしている。
この人もいつも図書室にいる人。
乙姫は彼に話しかけたことがなかった。だから、どんな人なのかは知らない。
いつ来ても蔵書をマイペースに整理しているから、おそらくこの人も職員さんなのだろうと思っている。
静かそうな人で、乙姫は話しかけてみたい気もしていた。けれど、何を話しかけたらいいのかわからなかった。
いつの間にか乙姫は男性の背中を見つめていた。男性はその視線に気がついて、彼女のほうへ振り返る。
「あっ。え、と、すみません」
乙姫は恥ずかしさと気まずさで顔をそむけ、勉強に集中することにした。
そう、そうよ。今自分がしなければならないのは、しっかり勉強すること。
自分にそう言い聞かせるように、英語の長文読解に向かい始めた。
集中してしまえば時間はあっという間に過ぎるもので、美術館の閉館時間まであと十分になっていた。
この美術館は、閉館を知らせるときに音楽が流れる。
真珠が浜出身の現代音楽家が作ったという音楽は、美術を志す乙姫にはセンスが理解できなかった。
心地いいような、不協和音のような不思議な旋律。それを聞きながら、乙姫は帰り支度をする。
窓の向こうを見ると、冬至に近い寒い日なだけあって、真っ暗になっていた。
反対に建物の中、蔵書のほうを見ると、そこには男性の姿はない。今は別の仕事をしているのだろうか。
参考書をドキュメントケースに急いでしまう。藤堂さんが図書室を閉める作業があるので、あまりのんびりするのは彼女に悪いと思うのだ。
リュックを背負って、乙姫は慌ててカウンターの前を通って退室しようとした。
それを、カウンター前のパソコンをシャットダウンさせようとしていた藤堂さんが止める。
「彦川さん、ねえねえ」
「何でしょう?」
「センター試験に向けての勉強も大事だけれど、せっかくここに来るのだから、たまには美術展を見てもいいと思うの。今、真珠が浜にゆかりのある作家たちの展覧会をやっているから、時間があるときに見ていってごらんなさい。受付に話は通してあるから、入館料を半額ぐらいにはしてくれると思う」
「えっ、いいんですか?」
「課長にバレたら怒られるから、内緒ね」
「はい、ありがとうございます。今度行ってみます」
次の日曜日、乙姫はまたも自転車で真珠が浜美術館にやってきた。今日は勉強もするけれど、それだけじゃない。
藤堂さんに勧められた通り、展覧会を見ようと考えていた。
会場の入り口に向かうと、いつも乙姫が来るのを見ていた受付の女性たちが笑顔で迎えてくれる。
「乙姫ちゃん、今日は特別に無料で展覧会へどうぞ。藤堂さんから話は聞いています」
「え? 藤堂さんは半額ぐらいって言ってたのに……」
向かって左の女性の言葉に、乙姫は戸惑う。それをだめ押しするように、右の女性も喋った。
「いいんですよ。将来は乙姫ちゃんの作品もここに並ぶんですから」
「いっぱいいいものを吸収してきてくださいね」
受付の女性たちに展覧会の目録を渡され、乙姫はリュックを背負ったまま展覧会の中に足を踏み入れた。
展覧会の中には、真珠が浜ゆかりの作家たちによる百点ほどの芸術作品が展示されている。
美術大学志望の乙姫はそのうちの何人かを知っていたが、まさかこんなにも多くの作品があるとは思わなかった。
軍港として明治時代から栄えた街を描いた油彩画、市民の足であるJR線をモチーフにした立体作品、この座網梳(ざもうすき)をイメージしたという彫刻。
作品と目録と掲示されている解説を交互に見ながら、乙姫は静かな美術館の中を歩いた。
私も、いつかここで展示してもらえるような絵を描きたい。
作品たちを見て彼女がそう思うのは、自然なことだった。それほど一つ一つの作品には力があるように思えた。
白っぽいフローリング張りの床を歩く足は思わずゆっくりしたペースになっていて、どれぐらい時間が経ったのかもうわからなくなっていた。
展覧会も三分の二を観終わったところで、乙姫は一枚の油絵の前で足を止めた。
四十号ほどの、小さくもないけれど大きすぎるわけでもないキャンバスに、女の人が描かれている。
赤いワンピースを着た女性の手前に、膝ぐらいの高さまで白い花が咲いている。花は切り花ではなく、地面から生えている。
背景は真珠が浜にしては暗い浜辺だったが、女性の表情は明るかった。
筆のタッチは繊細というより大胆で、かすれも気にせずにキャンバスの上に絵の具が置かれている。
乙姫はこの絵に不思議な力を感じた。現代的な筆さばきの絵はあまり好きではなかったのだけれど、古典の西洋絵画的な絵よりも何か訴えてくるものがある。
力強い、何か。
作者の情念めいた感情が今にも自分を食らってしまいそうで、乙姫は動けなくなった。
絵の解説を書いた小さなボードには、「灰島鼎」と書かれている。作品名は「恋」と書いてあり、この作品は制作年と作者の名前しか掲示されていなかった。
「はいじま、けん……」
乙姫は作者の名前をそっと口に出してみた。出したところで魂が抜かれるわけではないと知っていたけれど、そうせざるを得なかった。
これが美術展でなければ絵に触れてしまいそうな自分がいる。
五分ほど作品の前で立ち尽くしていた乙姫に、誰かが近づいてきた。
「この作品が気に入った?」
「えっ、あ、あの、……はい」
急に話しかけられて、乙姫は少しだけ挙動不審な答え方をしてしまう。
彼女が声のほうに体を向けると、そこに立っていたのは図書室にいつもいるあの男性だった。
乙姫は一気に気分がほぐれ、ホッとしたように言葉を返す。
「あ、図書室の……」
図書室の職員ならば、きっと自由に展覧会へ足を向けることもできるのだろう。乙姫はそう納得して、もう一度絵のほうに向き直った。
「この絵、なぜか気になっちゃうんです。不思議な力があるような……」
「そうか。乙姫さんはこういう絵が好き?」
「いいえ、あまり好きなほうではないんです。どちらかといえばターナーやコンスタブルのような精緻な風景画のほうが好きです。この絵はこんなタッチなのに、人を惹きつける力があって、すごいです」
「そうだね。この絵はタイトルの通り、恋の絵だから。きっと乙姫さんもこれから知る感情だよ」
「あの……」
男性に話しかけようとして、乙姫は言葉に窮した。いつも図書室であっているけれど、私はこの人の名前を知らない。
「カイシマ。カイシマカナエ。……この絵の花はハマユウと言うんだよ」
「ハマユウ?」
「真珠が浜が自生の北限とされている、彼岸花の仲間」
乙姫はカイシマさんの言葉を聞いて、絵の中の花をじっと見る。確かに花の形は彼岸花に似ている。
それが、恋と名付けられた花に?
「まっすぐな想いをを表す花だよ。でも彼岸花と同じく、毒がある。そう──毒が」
乙姫の後ろでカイシマさんの解説が入る。だが、カイシマさんも詳しく述べてくれるつもりはないらしく、それ以上の言葉はくれなかった。
ふと、乙姫が後ろを振り返る。そこにはもう彼はいなくて、乙姫はひとり天井の高い美術館で展覧会の残りを見ることにした。
翌日、乙姫は真珠が浜高校の美術準備室でひとり椅子に腰掛けていた。
彼女が通っている高校は芸術系の大学を目指す人が少ないから、いつもこの部屋は乙姫しかいない。
歴史の古い高校だけに、教室に冷暖房なんてついているはずもない。美術準備室は狭い部屋だし、物にかこまれているので寒くはないほうだ。
彼女が取り組んでいたのは、油彩のキャンバスの張り替えだった。
お金が潤沢にあるわけではない乙姫は、絵の練習をするときにいちいち新しいキャンバスを使うことができない。
使わなくなったキャンバスを木枠から外し、新しい生地を張り替えて次の絵を描くのだった。
この高校の出身で美大を目指し、お金に余裕のない生徒は皆こうする。
だから美術準備室の一角には、過去の先輩たちの絵がたくさん残されている。
美術の先生も、「現役の生徒の役に立てば」という意味を込めて剥がした生地を残してくれている。
乙姫は使わなくなったキャンバス地を床に置いて、細い釘を口にくわえた。
新しい生地と木枠を持って、一本目の釘を打つ。
もう慣れた作業だったけれど、キャンバスをひとりで張り替えるのは意外と骨の折れる作業だ。
釘を二本、三本と打つうちに、手が滑って左手の親指を金槌に当ててしまった。
「痛っ」
なんとかキャンバス地を張り終えて、乙姫は使い終わった生地を、先輩たちの使用済みのものと一緒に並べることにする。
私の絵も誰かの役に立てばいいな。いつかそんな日が──棚の上にあった生地を入れている箱を取り出しながら、乙姫は自然と笑顔になった。
少し彼女の身長では箱を取り出しにくかったけれど、ひっくり返さずに箱を取ると、その一番手前に自分の生地をしまう。
ついでだから、と昔の生地を箱の上から覗いてみると、一枚心に引っかかる絵があった。
「あれ、この絵、もしかして……」
見間違うはずもなかった。これは、美術館で見た灰島という作家の絵に違いない。
展覧会の絵と同じように、大胆すぎるぐらいの筆づかいでキャンバスが埋め尽くされている。
まさか同じ高校だったなんて、と乙姫は誰も聞いていない美術準備室で口に出した。
だが、不思議なことではない。真珠が浜から巣立っていった芸術家の多くは、乙姫の通う真珠が浜高校出身の人が多い。
この高校は旧制中学時代から続く歴史のある学校だったから、そもそも大学に進めるような人材はここに集まってしまうのだろう。
だから特段驚くようなことではない。
ただ、ここにキャンバス地が残されているということは、まだ灰島という画家は若いのではないかと乙姫は考えた。
そしてきっと彼もまた苦学をしたのだろうと。
布に描かれた絵を見ていると、乙姫の左指がじんじんと痛み出した。
この指をこのまま放っておくわけにはいかなさそうだ。
乙姫は使用済みのキャンバスを再び棚の上にしまって、保健室を目指した。
学校で実技の勉強を終え、乙姫は自転車に乗って真珠が浜美術館を目指した。
彼女には無駄にできる時間がない。
少しでも勉強できる時間があるなら勉強しなければいけないと思っていたから、立ち漕ぎする自転車の足には力が入った。
今日も図書室で閉館まで勉強しようと心に決めながら。
左手の親指には、先ほど保健室で巻かれた包帯が痛々しく巻いてある。
大したことはないと思っていたのだが、爪の端を打ち付けてしまったために、養護教諭に「しばらく爪の色が変わる」と脅され包帯を巻く羽目になった。
いつもと同じように木張りの遊歩道を力強く漕いで、息がきれる直前に美術館にたどり着く。
駐輪場に自転車を停めると、屋上から海を見ている男性の姿が目にはいった。
「……カイシマさん?」
「おー、乙姫さん」
美術館のエントランスに向かいながら、乙姫はその姿が誰だか確認した。
カイシマさんは乙姫を確認すると、彼女に向かって長い手を振る。
彼は薄着で、海風に当たりすぎていると風邪をひくのではないかと心配になった。
「少し話さない?」
間延びした声で屋上からカイシマさんが声をかけてくる。屋上からエントランスに声をかけるから、ちょっとだけ大きな声だ。
「ちょっとだけならー!」
乙姫も負けじと叫んで、屋上に向かって歩き出した。
この建物の構造は特殊で、屋上までは外のスロープを登って歩いていくことができる。美術館の中に入らずとも海の絶景を見られるというわけだ。
乙姫は体を暖めるようにスロープを走っていった。坂は意外に急で、リュックとドキュメントケースが邪魔だ。
はぁはぁと息を切らしながら屋上に上がると、目の前に冬の海が広がる。
太平洋に面した海だから、冬だけれど色はそんなに暗くない。
海風が直接吹き付けて、乙姫は身をぶるっと震わせる。
「は、はじめて屋上に登った……でも、寒い!」
「そうだったんだ。風邪ひかないように、ちゃんとマフラーしておきなね」
カイシマさんのほうがよほど寒そうな格好をしているのに、彼はなんでもなさそうな顔をして乙姫の隣に立った。
「この美術館の冬は、寒いよね」
ポケットに手を突っ込みながら、カイシマさんは言う。
「そうですね。綺麗な場所なんですけどね」
「綺麗だね。……ちょうど僕が大学受験をする頃にこの美術館ができたんだ。乙姫さんみたいにここで勉強したりはしなかったけど、何度か来たよ。この屋上に立つと、海から満月が昇るところが見られる日があるらしい。知ってた?」
「いいえ、知らなかったです」
「僕はね、いつかそれを見たいと思ってた」
「それはいつなんです?」
「分からないんだ」
「図書室の藤堂さんなら、知ってるかもしれませんね。藤堂さん、美術館が出来た頃から司書をしてるっていってたから」
「そうだね。……ところで、その左手どうしたの」
カイシマさんが乙姫の左手を見て、不思議そうな声を上げた。
そりゃ不思議に見えるだろう、と乙姫は思う。左手の親指にぐるぐると包帯が巻かれているのだから。
「ちょっと……キャンバスの張り替えのときに怪我をしてしまって」
カイシマさんは困ったように笑って、乙姫を心配してくれた。
「体を大事にしなきゃ、ダメだよ。僕は体が弱かったし、同じように怪我したりもして、結構苦労したから」
「そうだったんですね」
「お金もなくて、家にあったテレビを売り払ってまで大学受験費用にあてたぐらいだったし……。だから、乙姫さんには頑張ってほしいなって思うんだよ」
カイシマさんの若そうな見た目で、テレビを売り払わないと大学に行けないほどというのは、乙姫には想像ができなかった。
自分は確かにお金がなくて苦労しているけれど、まさかテレビまで手放すほどではない。
「まあ、いろいろ大変だけど、夢をしっかり見て、その夢を実現させなよ。僕は応援してる」
「ありがとうございます。あの、私……」
頑張ります、と続けようとした声を無視して、カイシマさんが乙姫の左手に触れようとした。親指にカイシマさんの細い指が触れるかどうかというとき、強い風が吹く。
あっと声をあげる間も無く、乙姫の指に巻かれていたはずの包帯が空に舞った。
白い布は強い海風に吹かれて、軽々と飛んで行ってしまった。
冷たい空気にさらされた左親指の爪は赤黒くなっていて、カイシマさんが顔をしかめる。
「それは痛そうだ。受付に行って救護セットを借りてきたらいい」
「そうします。カイシマさんは?」
「僕はもう少しここにいるよ」
乙姫はカイシマさんを屋上に残し、美術館の中に入っていった。
美術館のエントランスに入ると、大量の本を抱えた藤堂さんが歩いていた。
「あ、藤堂さん。いいところに」
「彦川さん、どうしたの……って、その指、一体どうしたの」
「学校で怪我をしたので包帯を巻いていたのですが、今屋上で飛ばされてしまって」
エントランスのベンチに本を一旦降ろしながら、藤堂さんが乙姫の指を見た。
「バックヤードに救急箱があるから、ちょっと待っていて。取ってくるあいだ、この本を見ていてくれるかしら」
藤堂さんは職員通用口からバックヤードに入り、救急箱を取りに行ってくれた。
このエントランスには、受付の人たちと乙姫しかいない。
受付とは少し距離が離れていたため、話しかけることはためらわれた。
ベンチに腰を降ろしながら、乙姫は藤堂さんが持っていた本を眺める。
「『現代芸術家たちの息吹』。こっちは『現代美術入門』、……へえ、最近の作家を紹介する本ばかり」
乙姫は右手だけで器用に本を開いた。パラパラとめくっていると、見覚えのあるタッチの絵を見つける。
「あれ、この人……はいじま、さんだっけ」
作者名を見てみると、確かにそうだ。またも女性をモデルにした油彩画が本には載っている。
灰島のプロフィールが掲載されていたので、乙姫は読んでみることにした。
生年を見てみると、まだ三十代に入ったばかりのようだ。だが、その生年の横に去年の数字が入っている。
つまり、彼はもう亡くなっているということだ。
「この人、もう亡くなってるんだ……」
続きを読もうとしたところで、藤堂さんが早歩きで乙姫のほうへ向かってきた。
「あら、本を読んでいたの」
「はい。面白そうな本だなと思いまして」
藤堂さんは乙姫の左手を取りながら話を始めた。
「今度、その本に載っている人の展覧会をやるの。学芸員さんたちが今図録を作っている最中だから、その資料を学芸員室に運びに行くところだったの」
「図書室でそんなお仕事もしてるんですね」
消毒液を指にかけられて、乙姫は背筋をぴっとさせた。冷たいような痛いような気がして少し顔を歪める。
「今度の展覧会で扱う人の絵、彦川さんも見たことあるはずよ。このあいだあなたが見てた展覧会にも作品があったもの」
「それってもしかして、『はいじまけん』さんですか?」
包帯を器用に巻かれながら、乙姫は視線を藤堂さんの持ってきた本に落とした。その本にあって自分がこの前の展覧会で見たというのなら、きっとその人だろう。
「はいじまけん? ……ああ、あれはね、『かいしまかなえ』って読むのよ」
包帯をサージカルテープで留めて、藤堂さんは小さな声で「これでよし」と言った。乙姫はその声を聞いておらず、その直前に発せられた名前のほうに注意が向いている。
「かいしま?」
「珍しい読み方をするからね。読めない人がたくさんいるみたい。本人も生前『人に名前を覚えてもらえない』って言ってたみたいよ」
「……!」
乙姫は思わずベンチから立ち上がった。
あの絵を描いた人がカイシマさんで、私に話しかけてくれた図書室の人も同じ名前で、その人はもう死んでいる?
頭が混乱して、乙姫は瞬きを繰り返す。
次の瞬間には、藤堂さんに「ありがとうございました」と言いながらエントランスを出入り口方向に走り出していた。
カイシマさんに確認しなきゃ。
あなたは一体誰なの?
エントランスの自動ドアが開くのももどかしく、開きかけたドアに体を滑り込ませる。
ガラス張りの建物の前を駆けて、屋上に続くスロープを登った。
駆け上がっても、そこに人の姿はない。
次に乙姫は海を一望できる展望室に向かった。そこにもカイシマさんの姿はない。
どこ、どこ、どこにいるの?
「カイシマさん、どこにいるの? あなたは誰なの?」
屋上から海に向かって、乙姫は叫んだ。返ってくるのは海のざわめきのような波の音だけで、人の声はしない。
スロープを誰かが上がってくる気配がして、乙姫はカイシマさんかと期待した。
だがそこにやってきたのは肩からコートを羽織っただけの藤堂さんだった。
「どうしたの、彦川さん」
「実は……」
乙姫は藤堂さんに全てを話した。
図書室で勉強をしている時、いつも藤堂さんの近くに男性が立っていた。
それを告げると、藤堂さんは驚いたような顔をする。
「図書室には私しかいないはずだけど……」
「展覧会を見た時も、灰島鼎の作品の前でその人が私に話しかけてくれたんです。今日も屋上で話をして……」
それと同時に、乙姫は藤堂さんに男性の特徴を話した。
眼鏡をした、すらっとした長身の男性。
「……それは、灰島鼎本人かもしれないわ。信じられないけど」
「え?」
「実はね、誰にも話したことがなかったのだけれど……真珠が浜ゆかりの作家の展覧会に出品されていた灰島の絵のモデル、私に似ていると思わない?」
突然そんなことを聞かれて、乙姫はきょとんとした顔をした。
言われてみれば、どことなく似ているかもしれない。
「あの絵のモデルは、私のいとこなの。名前は相模咲。灰島の東京藝大時代の同級生よ」
「相模咲さん……?」
「今は作家としては活動していない。学生時代、灰島は咲姉さんに恋をしていたらしいの。でも咲姉さんは大学を卒業するとすぐ、他の人と結婚してしまった。灰島が咲姉さんに想いを伝えたかどうかまでは、私は知らないけど……」
「あの絵を描いた時は、灰島は二十五歳。まだ咲姉さんのことが好きだったみたい。あの絵を描く時、少しだけ私見ていたのよ。灰島の目が悲しそうで、なんでこの人はこんな顔をしながら絵を描くんだろうって、思ってた。絵って、もっと楽しいものだと思っていたから」
「あの絵、浜辺でしたよね。ハマユウが描いてあって、それについてカイシマさんが教えてくれました」
乙姫は絵のことを思い出す。赤いワンピースを着た女性──咲さん──の横には、膝丈ぐらいのハマユウが描かれていた。
「ハマユウの花言葉は、『純潔』。灰島は自分の純潔を咲姉さんに捧げたって意味なのかもしれないわ」
「でも、ハマユウには毒があるって、カイシマさん言ってました」
「きっとね、灰島の咲姉さんへの想いは、純真なものだけではなかったのよ。その気持ちの中には毒のように黒い感情もあったのだと思うわ。だって自分の恋が実らなかったんですもの」
「そんなの、逆恨みじゃ……」
「彦川さんも大人になればわかるわ。誰しもが純粋な想いだけで生きていけるわけじゃないってこと」
海風が藤堂さんと乙姫の髪を揺らした。
乙姫はそんな言葉を言った藤堂さんの顔を見たが、彼女が何を考えているのかわからなかった。
「さて、体が冷えてきたわね。自販機で温かい飲み物を買うけれど、彦川さんも飲む?」
藤堂さんの言葉に乙姫は小さく頷いて、美術館の入り口の方向へ二人は歩き出した。
スロープを下りながら、藤堂さんは聞こえるか聞こえないかという音量で話しかける。
「ねえ、灰島は何か言っていた?」
「え? 相模さんについてですか?」
「いいえ、彦川さんについてよ」
自動販売機の前で足を止めて、ポケットから小銭を取り出す。
商品を選ぶとピピ、という音がして、ほどなく温かいコーヒーが落ちてきた。
「夢を頑張って実現させなよ、って言ってました」
藤堂さんはコーヒーを取り出すと乙姫に渡す。もう一本同じようにして買って、それは自分の手に持った。
そして藤堂さんは鼻から息を吐きながら、笑顔を作る。
「灰島も、変わったのね。咲姉さんと一緒にいた頃は、人を認めない奴だった。私も散々馬鹿にされて、悔しかったのに」
コーヒーの缶を開ける音は、海鳴りにかき消されて聞こえなかった。
結局、美術館にいた男性は灰島の幽霊ではないかということを、藤堂さんと乙姫は結論付けた。
藤堂さんはあまりそういった超自然的なことは信じたくないと言っていたけれど、乙姫の話は嘘ではないと思ってくれているようだ。
年が明けるとあっという間に時間は過ぎ、乙姫は東京藝術大学の入試に挑んだ。
今日はその結果を聞いて、帰りに美術館に寄ろうとしている。
まだ春は遠く、冷たい海辺の風の中を自転車は走っていった。
自転車をいつもの通り駐輪場へ停めて、迷わずまっすぐに図書室へ向かう。
「藤堂さん、見てください!」
今日も変わらずにカウンターに座る藤堂さんに、乙姫は大きな封筒を見せる。
「合格しました!」
藤堂さんはそれを聞くと、よかったわね、と小さく笑った。でもここは図書室だから静かに、という注意も添えて。
乙姫は「いけない」と舌をちょっとだけ出して、彼女もまた笑った。
カバンを勉強するときと同じ窓際の席に置いて、乙姫は蔵書のほうへ向かう。
そこには蔵書の整理をする、眼鏡をかけた長身の男性が立っていた。
終